先日、ようやく全ての有給の消化を終えて、完全にフリーなただの人になりました。
もし何かテレビなどの報道で流れるコトがあったら、“無職”ってアナウンスになるんだよね…と思うと、ちょっと嫌気がさしますが、それでもそれを自分が選んだ訳で、全然、後悔なんてモノはナイんですが(今の所)、やっぱりそうした選択が出来ると言うのは、ありがたい国だなぁ…とも。
フェズ・メディナの奥地はGPSが入らない?
フェズのメディナの中の奥の方に行くと、iPhoneにダウンロードしてある地図アプリであるmaps me.では、現在地ですら示さなくなる。
ん?
GPSが入らないってコト?
そんなコトって、ある?
なんて、思いつつ、ズンズンと奥の方へと進んでみると、カラウィン・モスクへとたどり着く。
とは言っても、モスクの中には異教徒は入れないし、大きな広場があってそこにモスクがそびえていると言う感じでもなく、ただモスクが左手にある…と言う状態。
大きめのモスクのハズ。
なのに、全容が見えないので、ホントにカラウィン・モスクなんだろうか…と言う感じになるけれど、周りの現地の人は口を揃えて“間違いない”と言うので、きっと間違いないんだろう。
そして、そのモスクに隣接しているネジャーリン広場へとたどり着いたのだが、
“え?ココ?”
と言う小さな広場。
広場と言うよりも三叉路に近くて、最初はスルーしてしまった程。
大工の仕事場が周りにあったので、何となくココかしら…と言うレベル(“ネジャーリン”はアラビア語で“大工たち”の意味)で、地図から考えていた感じのモノとは程遠い様な広場。
ってか、これを広場と言うのは、ちょっと無理がある気がしなくもない。
フェズの一大名所・革なめし地区
ネジャーリン広場から、脇道を入って行くと、程なく、
“カワナメシ~”
の掛け声が。スーク・ダッバーギーン(タンネリ)にようやくたどり着けた。
普段なら、そうした掛け声に一抹のウザさを感じたりするのだけれども、細い路地が続いていてホントに向かっている方向が正しいのかどうかに自信がなかったから、ついこの掛け声にホッとしてしまう。
いわゆる、なめし皮染色職人街。
モロッコは革製品が数多く販売されているが、中世からのやり方で革を染め付ける様子を見るコトが出来るエリアだ。
円形の染色桶を使って染め上げられるのだが、元々、染色が止まっていると言うのは、聞いていたけれども、やっぱりフェズに来たらココは見ておきたい所だった(見る為には寄付を払ってガイド付きで見る感じになる)。
因みに染色が止まっている理由は、王様が来るので、辺りをキレイにしているとのコトだったのだが、実際に、その通りだった。
ってか、王様が来るからキレイに…って、キレイにし過ぎである。
円形の桶からは染料が抜かれ、その底が露わになっていて、さらに言えば、ホントにきれいに再整備されている感じで、周囲の建物からも汚れ自体が見られない状態に。
きっと本来ならば、革の匂いが充満していたのだろうけれど、勿論だが、そんな匂いは全くなくて、ホントに街と同化してしまっている様な、そんな状態。
でも、逆に訪れる人もいつもより少ないのか、ゆっくりと見れた感じだし、ある意味、貴重な時期のフェズを見れたのかもなぁ…と。
ガイドしてくれた兄ちゃんも、時間を掛けて話してくれたし、そもそも労働が止まってしまっているので、働いている人の邪魔にもならないし。
職業選択の自由とグローバル化とブラック企業
それにしても、こうした職業は、ホントに家族で受け継いでいく形になる職業。
手に職があると言う言い方も出来るけれども、安い賃金のこの職業から抜け出すのは、現代のモロッコであっても難しい部分がある。
別に職業カーストがある国ではないけれども、そこにどれだけ
“職業を選択する自由”
はあるのだろうか。
そして、いつまでこうして代々脈々と職業を受け継いで行くコトが出来るのだろう。
やがて、手工業から機械工業に押されていく流れにもなるのだろうし(もう既にそうなっている感じもあって、やっぱり安い革製品だと中国産だったりする)、もっと安い輸入物が大量に入り込んで来たら、何処まで対応していられるのだろう。
既にそうしたグローバルな環境に置かれつつあるのだろうけれど、それに対応する術は、やっぱり機械化と言う流れになってしまうのではないか。
そうなった場合、この風景は、いつまで保っていられるのだろう。
そう言った話を、ココに住んでいる家族の子供たちと話をしてみたかったなぁ…
“安い”
と言うのは、大切な商品の購買要素の1つだと思う。
それは間違いがないし、誰しもが“良い商品を少しでも安く”と思っているだろうし、それに向けて売り手も努力を重ねていく訳だ。
だが、その安さを甘受出来る背景には、きっと何処かにしわ寄せが来ている。
それが今のグローバル化の社会の中での“安さ”だ。
近頃良く、“ブラック企業”と言う言葉を聞く機会があるけれども、ブラックな企業が誕生するには理由があって、その一端は、消費者が“度を超えた安さを求める”コトにあるのではないか。
つまりはブラック企業を生み出すのは、そもそも我々消費者だったりする。
しわ寄せはいつかは必ず生産地にまで達する訳で、安い賃金がさらに安くなったり、劣悪な労働環境になったりするけれども、そこはもう異国の地で、我々消費者からは目が届きにくい状態になる。
そう言うコトを踏まえて、1つ1つの商品を使い捨てにするのではなく、大切に使い続けていくと言う考え方に、ホントは切り替えて行かなければいけない頃に来ているのに、どうしても目先の値段に人は負けてしまう…
なんてコトを考えながら宿に戻っていたら、当たり前の様に旧市街の中で、迷子になってしまっていました。
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