祈るって単純なコト。
でも、案外、難しい。
日本人みたいに、何かに困った時に祈るのは、簡単なのかも知れないけれど,日常的に、恒久的に何かに祈ると言うのは。
ただそれがその人の生活の軸になっていると思うと、祈ると言うコトは、ステキなコトだよなぁ…なんても思ってしまいます。
祈りの空間としてのラリベラ
ラリベラの教会群の特徴として、岩窟教会と言うコトと、中が比較的ポップ(これはエチオピアに共通するコトなのですが)と言うのを、前2回の記事で書いて来ました。
・ラリベラの教会群 ① (岩窟協会)
・ラリベラの教会群 ② (ポップな教会内部)
それに加えて、“今も信仰の対象である”と言うのも、大きな要素なのだと思う。
静かに、祈っている人達がいる。
一目散に、観光客には脇目も振らずに、祈っていたり、読経をしていたりする人がいる。
そう言う光景が随所に、見られる。
それがまたラリベラの1つの風景になって行く。
それがまたラリベラの1つの雰囲気になって行く。
それがまたラリベラの空気を作り出して行く。
その祈りは、まるで時を止めた様な、そんな雰囲気すら漂っている。
きっとこの人は、明日も、明後日も、この場所で、こうして祈りの捧げている様な気がする。
いや、何年か過ぎた後にこの場所に来ても、同じ場所で、同じ様に、祈りを捧げている様な気がしてならない。
時間も気にせず、他の誰かを気にする訳でもなく。
その気配すら感じさせずに。
一心不乱に…と言うよりも、ただ黙々と。
自分と対峙しているのか、それとも、祈りと対峙しているのか。
いや、そう言う概念を超越しているのかも知れない。
外に出てみても…
そこでも、祈りを捧げている人がいる。
やっぱりここは今も生きている教会なのだ。
それもラリベラの持つ大きなチカラで、今を生きている教会だからこそ、今も現地の人の信仰の中心地に位置していられるのだと思う。
ふと耳を澄ませると、岩窟の何処かから、讃美歌の様なモノが聴こえて来る。
讃美歌の“様な”と書いたのは、ボクが知っている讃美歌ではなかったから。
ゆったりとしたリズム。
パッと聴くと、何だか物寂しくなる様な、そんな声。
幾重にも低い声が重なり合って、讃美歌と言うよりも、仏教の読経に近い様な、そんな感じ。
そこにシャンシャンと、鈴の音がリズムを取っているメロディー。
目を閉じて聞いてみると、何処かに連れ去られてしまう様な、そんな惹き込まれる歌声。
幾重にも重なった声の音色が、さらに、崖に反射し、共鳴し合う。
深い、深い、何かの奥底にいるかの様な…
深く、深く、ココロの奥へと染み渡るかの様な…
宗教の持つ美しさが、そこにはあった。
祈る姿だからこそ、見られる美しさなのだと思う。
それは、我々日本人が、すっかり忘れてしまった美しさの1つなのかも知れない。
でも…
中には、やっぱりそうではない人もいます。
写真を撮らせる代わりに、チップをねだる司祭とか。
お礼としてチップを渡すのは、アリだとは思うけれども、最初から、それを目当てに声を掛けられると、やっぱりげんなりしてしまいます。
観光客も多い場所ではあるので、仕方がないコトなのでしょうけれど。
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